リサーチ

Research of sports culture


近代スポーツの起源


イギリスで「パブリック・スクール」誕生

パブリック・スクール
イギリスにおいて、主として少年期の男子を教育する私立の寄宿生学校のこと。特に近代サッカーやラグビーの発祥は、このパブリック・スクールにおけるスポーツ革命の成果であるとされている。当初女性の入学は認められていなかった。

菊 幸一
スポーツ文化論の視点(※1)


植民地をマネジメントするためには、有能な人材が必要でした。その人材育成に乗っていたのがジェントルマン(獅子)を育てるパブリックスクールでした。 遊びを通してこれらの能力が身に付くように、スポーツと言うソフトを作り出し、活用したのです。

中村聡宏
「スポーツマンシップバイブル」(2020)
東洋館出版社


明治期以降の近代公教育においてスポーツが教材化される時、目指されたものは「国にとってふさわしい身体を持った国民」の形成でした。初代の文部大臣、森有礼は、富国強兵と言う当時の政府のスローガンにおいて体育が持つ重要性を強く認識していました。日本と言う国家を支える国民の「身体」の育成に、今日緊急の政治的課題を見ていたのです。運動会が、学校で必ず行われる行事として発展するのは、この森の施策によるところが大きいと言われています。つまり、こうして「身体」は、政治的な構成物として社会的に構築されていったのです。

体育とスポーツ
松田恵示 (※1)


スポーツ=身体運動として捉えると、これまでの「文化」が洗練された、上品で知的な、あるいは感性的な営みとして捉えられることと比べ、そのようなコントロールが効かない、暴力的でさえある身体運動のイメージが、これまでの文化概念にそぐわないものとして捉えられてしまうのです。またこのような捉え方は、主にキリスト教の教義に影響された西洋の心身二元論にも依っています。心=精神の理性的な働きが、常に身 =肉体の動物的な欲望をコントロールしなければならないとする考え方は、身体運動として直接的に体験されるスポーツを文化として考えることからさらに遠ざけてしまう原因となりました。

近代スポーツの特徴としては1)教育的性格(2)禁欲的性格(3)倫理的性格(4)知的・技術的性格(5)組織的性格(6)都市的性格、そして何よりも(7)非暴力的性格などが強調されます。 (中略) 近代以降の社会が成立するためにはこのような性格を内面化した人々の存在が不可欠であるということになります。

菊 幸一
スポーツ文化論の視点 (※1)

現象としてのスポーツ


自由と平等、競争と連帯、自発性や主体性と規律や秩序といった両立し難い価値を両立させ、ともに実現させうる一種のユートピアとなり、したがって、また人生や社会のモデルあるいはメタファーともなり、さまざまの教訓を人々に伝える一種の「道徳劇morality play」ともなった。

井上俊
「スポーツと芸術の社会学」(2000) 世界思想社


18世紀には狐狩りは、そのような狩猟とは明らかに異なる特徴を備え、楽しまれました。 それは、狩りそのものにも、狩りをする人間にも、特殊な制約を課したものでした。例えば、狩りの最中に狐以外のおいしい動物に出会っても無視すること、自らは力の行使(殺すこと)を抑制し、訓練した猟犬の狩りを見る側に立つこと、などです。つまり目的を達成するためには障害でしかない様々な制約(=ルール)を自ら作り、それを共有することによって、目的達成までの過程を意図的に長く保ち、家庭そのものに興奮を追求すると言う方法がとられました。

狩りのスポーツ
中江桂子 (※1)


体操ほどスポーツと芸術のまさに波打ち際にあるものがあるだろうか?そこではスポーツの海と芸術の陸とが微妙に関わり合い犯しあっている。 満潮の時にスポーツだったものが干潮のときは芸術となる。そしてあらゆるスポーツの家で形(フォーム)が形自体の価値を強めれば強めるほど芸術に近づく。どんなに美しい本でも速さのための高さのための、有効性の人から評価されるスポーツはいまだにスポーツの域にとどまっている。しかし体操では形は形それ自体のために重要なのだ。これを裏から言えば芸術の本質は結局、形に帰着すると言う事の体操はその見事な逆証明だ。

実際人間なら、あやまちを犯す方が普通で、あやまちを犯さないのは人間ではない。それこそ、むしろわれわれと共通した人間の日常感覚が広がっている。ホームがちょっとよろめくこと、ちょっと姿勢が傾くこと、ほんのちょっと足が鞍馬にさわること、ほんのちょっと演技の流れが停滞すること…これこそ我々が「人間性」と呼んでいる所のもので、半神であることを要求される体操競技では、人間性を出したら、たちまち減点されるのである。

佐藤秀明 編
「三島由紀夫スポーツ論集」(2019) 岩波文庫

完全性の夢  体操

スポーツ美学


スポーツの観客が「生命力の表出」や「人格性の発露」を感得し、読み取っていくことは常に可能。 それは一種の「美的体験」

井上俊「スポーツと芸術の社会学」(2000)
世界思想社


「勝利と敗北、成功と失敗、失望と幸福」といった人生の諸相を「日常生活ではまず経験できないような形で」経験することができる。

文学のなかのスポーツ 小笠原美保 (※1)


スポーツの奇蹟は人間の肉体というものが、鍛えようによっては、どんな思いがけないところに、どんな思いがけない楽園を発見するかわからないという点だ。常人の知らない別世界の感覚の発見……。酒や阿片とは反対のものだが、スポーツが止められなくなるのは、やはりそれがあるからであろう。

佐藤秀明 編 「三島由紀夫スポーツ論集」(2019) 岩波文庫
合宿の青春


O.グルーぺは「スポーツが存在しなければ、おそらく美を感じる機会は極めて少なくなるであろう。すなわち、運動や姿勢に対する美意識が生まれにくくなるであろう」と述べます。スポーツの美や芸術性の評価や競技性をめぐり多様な意見がある事は、スポーツ自体が豊かな文化性を含んでいることを示しているとも言えるでしょう。

美を競うスポーツ 矢島ますみ (※1) グルーぺ.O/長島惇正ほか訳(1987 = 1997)「文化としてのスポーツ」ベースボール・マガジン社、93貢。


運動というのは芸術と同じく、人間が生み出した立派な表現手段です。アスリートは皆、表現者なのです。たとえ思い通りの結果が出なかったとしても、力を発揮する姿だけでも人々は十分心を動かされる。勝ち負けとは次元の違う、掛け値のない価値観が運動にあるということを、人々の心に届けられるのが、運動というエンターテイメント真意ではないかと私は思っています。

ヤマザキマリ 「オリンピック・キュクロス」 2巻(2018) 集英社 [漫画とオリンピックと私] ヤマザキマリ


美学が対象とする美はもっと広く、陸上競技の短距離走のスタートの「素早さ」、バレーボールのスパイクの「強さ」、柔道の寝技の「しぶとさ」といったものも、スポーツの美に含まれるのです。 美という語は「美しい」を意味するだけでなく、「良いこと」「立派なこと」「見事なこと」を意味します。スポーツ選手の優れたプレイは美となる可能性があるのです。また素晴らしい美的なプレイを見たとき、私たちは感動します。したがって感動を引き起こすことも関係があります。スポーツにおける感動は、どのようなスポーツにおいても可能性がありますから、スポーツの美は大きな広がりを持っているのです。美学では「感性的直観にうったえかける価値」を美と捉えます。私たちの感性を刺激し、直接的に私たちを惹きつけるものが、美学が対象にしようとする美なのです。

樋口 聡 スポーツの美学 (※1)
勝部篤美(1972)「スポーツの美学」杏林書院。


近代的な技術概論を前提にしますと、スポーツを芸術とみなすことはできません。芸術家の意図的な表現という要素を、スポーツは欠いているからです。 他方、芸術をそのもともとの意味である「テクネー」にかえって、「技術的な技」と捉えると、スポーツの独特の芸術となっています。この2つの意味を区別するために、後者をカタカナで「アート」と表記することもできます。スポーツは近代の一般的な意味での芸術ではないとしても一種のアートであると言うことができるのです。この捉え方は現代アートに見られるような記述概念の変容も説明することができます。芸術の現在が、近代的な芸術概念から現代的なアートという変容を起こしており、その変容のあり方に、スポーツは重要な意味を持つ可能性があるのです。スポーツは人間の身体の見事さを開花させる、現在のアートなのです。

樋口 聡 スポーツの美学 (※1)
樋口聡(2003)「スポーツの美学とアート教育」佐藤学、今井康雄編「子どもたちの想像力を育むーアート教育の理論と実践」東京大学出版会、190-207貢

遊戯性と競技性


遊びとしてのスポーツでは、「競争」が行われるわけですが、相手が打ち負かすことよりも、交互に役割(攻守のところ)を変え、反転する往環の遊動こそが面白さの本質をなすことになります。勝負への固執よりも、駆け引きを楽しむことに重点が置かれていると言えるでしょう。それに対して競技スポーツでは、相手を打ちまかすといった「主体が客体を能動的に支配する企て」が優位となると、西村は述べます。 「文化は遊戯として、遊戯の中に成長してゆく」と言う構想を展開させたホイジンガは、すでに20世紀前半に、遊戯性を失ったスポーツは競争的本能の孤立的な現れに過ぎず、文化はなくなっていると指摘していました。

西村秀樹 遊びとスポーツ (※1)
西村清和(1989)「遊びの現象学」勁草書房


「競争で勝利すること」を第一とするとき、多少の反則は、悪質でなければ「技術のひとつ」位に思われているのが普通です。このようにスポーツに本質的にある「勝利主義」「競争原理」を考えると、スポーツによる人間形成は並大抵のことではありません。

スポーツは人間形成に役立つか 岡崎 勝 (※1)

社会構造とスポーツ


どんな時代、どんな民族にも部分的にはスポーツをしていた活動が発見できることを考えると、むしろ発想を逆転して、競技スポーツ的な原理が社会全体に行き渡ったことで近代が構成された可能性を考える方が適切かもしれません。司法制度に検事と弁護士の対決が組み込まれ、立法や行政で選挙制度による競争が活用されるように、科学においても自由で平等な論争が事実を確定しますが、それらは全て競技スポーツ的な競争原理の普及と足並みをそろえて確立されました。

スポーツ・ジャーナリズム
山本 浩 (※1)


小作人や自作農が工場労働者になり、地域共同体のつながりが希薄になっていく中で、民族遊戯が廃れました。代わりに地主貴族や紳士階級の支援による「健全な」娯楽の普及がスポーツの発展につながります。同様の過程にはイギリス以外の経済先進国とその植民地でも交流され、スポーツはローカルの娯楽や快楽のあり方を尖ったものとして排除し近代資本主義的なライフスタイルのグローバル化を後押ししました。

近代スポーツのゆくえ 西山哲郎 (※1)

メディアとスポーツ


テレビ放送

受け手の興味を引くナラティブ(物語)を盛り込みつつ、ナショナルでヘゲモニックの価値を絶えず補強・再生産している可能性がある。

NBAがクオーター制を導入した理由は、試合中にインターバルが増加すれば、テレビコマーシャルを入れやすくなるからだと言われています。

井上俊「スポーツと芸術の社会学」(2000) 世界思想社


メディアの立場からでは、元NHK ディレクターの杉山茂は、テレビ時代のスポーツは「テレビ的に映えるか」が重要であり、「激しい勝負を競うコンテスト」として、多数のカメラアングルと解説によって「見る側がジャッジと同じ拠点に立てるのは「採点競技」の妙味の一つ」であると述べ、採点競技がメディア世界において魅力的な素材・資源であることを指摘しています。

美を競うスポーツ 矢島ますみ (※1) 杉山茂(2004)「テレビはここに注目する」「図解ザ・採点競技」青春出版社、94-90貢。

ライフスタイル


当初は参加者が多くの若い女性に偏っていました。製造業の不振に起因する不況乗り越え、金融業や情報産業中心に経済復興を遂げた後は、ヤッピー(yappie)と呼ばれる新しいエリート層を先頭に、男性にもフィットネス文化が普及して行きますいきます。

管理された混沌を楽しむライフスタイルスポーツは、ある意味で前近代の遊びを特徴づけていたカーニバル文化の復興とみなすこともできるでしょう。

美容と自己実現を目指すフィットネス文化 西山哲郎 (※1)


ボディービル、エアロビクス、フィットネスは、 「理想的な肉体」あるいは「美しく健康な身体」を形成し維持すると言う目的に奉仕する運動、いわば逸脱的、境界的なスポーツ。

消費社会を支えているのは、持って生まれた外見や体質や環境にかかわらず、また加齢にもかかわらず、努力次第で(そしてお金をかければ)誰もが美しく健康で幸せになれるはず、と言うナルシシズムに訴える幻想であり、デモモクラシーの魔力です。

努力による改善、向上と言う観念は、同時にその手の努力を惜しむべきではない、と言う含意持ちます。つまり美や健康や若さが運命ではなく努力に依存するのであれば、それらの不全や喪失は努力の不足、さらには道徳的怠慢とみなされるわけです。

ボディビル・エアロビクス・フィットネス 河原和枝 (※1)  Featherstone. M(1991)

ニュースポーツ


eスポーツ

平昌では、eスポーツプレイヤーのサーシャ(スカーレット)・ホスティンが「スタークラフトⅡ」部門で女性プレイヤー初の優勝を果たした。eスポーツが業界全体でジェンダーの平等を達成する可能性を秘めていることに気づかせる出来事。

オリンピックムーブメントの最初の100年間の歴史においては大会のジェンダー間の平等が重要な関心事であったが、次の100年間ではデジタルスポーツで平等を達成する努力が最大の関心事となるかもしれない。

ミア,アンディ【著】〈Miah,Andy〉/田総 恵子【訳】/稲見 昌彦【解説】「Sport2.0 進化するeスポーツ、変容するオリンピック」 Ntt出版


ニュー スポーツの成立過程から整理すると、以下のように分類できます。
・遊びから発展したスポーツ
 スポーツチャンバラ、インディアカなど
・既存のスポーツに工夫を加えた新しいスポーツ
 タグラグビー、ゲートボール、ディスゴンなど
・メジャーなスポーツの練習法にヒントを得たス ポーツ
 ティーボール、トスボールなど
・全く新しい発想で生み出されたスポーツ
 キンボール、フライングディスク、ペタング、ディスゲッターなど ・特定の地域でスポーツとして行われていたスポーツ
 ローンボウルズ、クロリティー、囲碁ボールなど
・2種目以上のスポーツ複合したスポーツ
 ディスクゴルフ、グランドゴルフ、アルティメットなど

いろいろなニュー・スポーツ 山本 存 (※1)

スポーツ文化のかかえる問題


スポーツ文化が国家や民族の面子をかけたスペクタクルとなっている。 ドーピング、フーリガン、セクシャルハラスメント、マイノリティ差別、自然破壊、あるいはオリンピック開催地の決定をめぐるスキャンダルなど、さまざまな問題が顕在化している。

スポーツ政策 齊藤 健司 (※1)


「暴力と詐術」「凶暴さと悪賢さ」「敵を倒すための不正直な行為と試み」他人の利益を平然と無視したり抜け目なく行動することが蔓延することを暗示している。

「金銭的文化によって促進される」こと、またスポーツ愛好はしばしば「幸運を求める」ギャンブル精神と結びつくこと。さらにそうした気質はある種の「宗教的心酔」や「迷信的な慣行や信念」とも関連しやすい。

井上俊 「スポーツと芸術の社会学」(2000) 世界思想社


多種目にわたるプロ化の発展は選手と観客の距離を広げ、勝利至上主義のあまり、選手は自由な発想でプレイできなくなり、ハイレベルな競技スポーツは見世物に堕する危険にさらされています。

また、生産の拡大や効率向上前とする近代思考に荷担して、競技スポーツはそれ以外の価値観を低く評価する傾向をもちます。それは機械論的な身体観を前提とし、トレーニングに伴う痛みを無視するよう競技者に強います。健康のために推奨されることの多いスポーツですが、ハイレベルの競技スポーツでは勝利至上主義から来る怪我がつきものであって、健康維持に最良の手段とは言えません。さらに、世間で認められるスポーツ種目の多くが筋力や瞬発力を競う種目に偏っているために、産業社会に有用な人物像ばかりを持ち上げ、女性や障害者を低く見積もる弊害を伴ってきました。

近代スポーツとは 西山哲郎 (※1)

スポーツを取り巻く文化


暴力

「スポーツバイオレンス」と言う固有の文化領域の存在を暗示しています。「暴力をゲームの一部ではない」と結論するには、暴力をゲームの一部とするスポーツ文化を根底から変えなければなりませんが、現実には、そのような文化社会に深く根差しており、容易に解体することができません。

暴力 フーリガニズム 暴力はゲームの一部か 根上 優 (※1)


指導

なぜ戦後も戦前の封建的なスポーツ観や集団主義が残存しているたかと言えば、国際スポーツ界への復帰を果たしていく過程で、十分な科学的指導法も確立しないままに、戦前の古い指導法(勝利至上主義、競技中心主義と結びついた鍛錬主義、あるいは家父長制を想起させるような指導者絶対主義)が競技成績の向上に一定の成果を上げていったからです。東京オリンピックで女子バレーボールチームを優勝に導いた大松博文監督は「俺についてこい」と豪語し結果を残したわけです。

集団主義と精神主義 森川貞夫 (※1)


甲子園

敗者の美しさ 負けたら次の試合には出られない高校野球。敗者の流す悔し涙は時に見る人の心を揺さぶります。試合終了後、選手同士が握手やハグをしてお互いに健闘をたたえ合う姿は、スキンシップの機会が少ない日本においてはとりわけ特別なシーンなのではないでしょうか。球児のひたむきなプレイが我々大人の心を動かし、勇気を与えてくれるのでしょう。

なぜ日本人は夏の高校野球に魅了されてしまうのか考えてみた Naohttps://tabizine.jp/2018/08/27/203316/#i-5


武士道的精神が基準とされ、試合前に両チームが成立する儀礼の創出や、自己を捨ててチームのために尽くす「犠牲的精神」、「敢闘精神」(フェアプレー)などが賛美されていたのです。その結果、現在に至るまで、甲子園野球には常に教育的言説が付きまとうことになったのです。例えば、暴力事件など不祥事が起こったときにはチーム全体が出場を辞退するなどといった過剰な連帯責任が教育のなのもとに正当化されていきました。

軍隊的と言われる練習の横行、プロからの裏金や特待生制度をめぐる問題を発生するなど、高校野球そのものがビジネス化していると言われる中で、メディアによって強調される高校生らしさは、現実とのギャップを動かしているのです。

日本特有のスポーツ文化 ー「夏の風物詩」甲子園野球 石坂友司 (※1) 中村哲也(2010)「学生野球憲章とは何かー父から見る日本野球史」青弓社

社会的に作られるイメージ


スポーツ選手はファンよって社会的に作られます。とりわけメディアによって、スポーツ選手はその時代のファンが求めるイメージに作り替えられていくのです。ある時期は、スポーツ選手は神格化され、われわれには手の届かない存在として「スタート」の称号を与えられました。

つくられるスポーツ・ファン 杉本厚夫  (※1)

スポーツとジェンダー


日本の調査結果では、一般女子学生に比較し、体育系女子学生はセクシャル・ハラスメントに対する認識が低いことが明らかにされています。また、セクシャル・ハラスメントになり得る行為に関して、男性指導者よりも女性競技者の方に評価が甘いと言う結果が示されています。そして、女性競技者は男性指導者から「挨拶やマッサージで触る」「容姿に関する発言」「卑猥な発言」「お酌をさせる」「月経について聞く」と言う行為を40-60%、「1人だけ部室に呼び出す」と言う行為を約35%が経験しています。 女性競技者の評価の甘さや認識の低さは、高い割合で起こる経験と連想させて読み解く必要があり、スポーツの場面では、指導における身体上接触や個室指導がセクシャルハラスメントになる可能性があるグレーゾーンといえます。

セクシャル・ハラスメント 飯田貴子 (※1)
高峰修ほか(2009)「女子大学生がスポーツ環境において経験するセクシャル・ハラスメントの特性と構造 ーー体育系とスポーツ系サークルの比較」「スポーツとジェンダー研究」


「異性愛的な女らしさを捨てていない」が故に「望ましい」女性アスリートの姿であると指摘されています。

スポーツメディアは女性アスリートのイメージ顔としてスポーツを超えた「女性」の物語を提示します。それらの多くは「アスリート」としてよりむしろ「母」や「妻」、「娘」、「女の子」、「アイドル」としての彼女たちに焦点を当て、競技活動と家事や子育てとの両立、父親的存在であるコーチとの熱い信頼関係、魅力的な笑顔やプロポーション、戦いの場から離れた女の子らしいあどけなさといったようにステレオタイプ化し、それを「望ましい」姿として描きます。

具体的な担い手、及び受け手の性別にかかわらず、メディアイメージが構築される際に、どの女性アスリートの、どの情報、どの文脈で、どのように表現するかと言う諸々の判断が、異性愛男性を基準におく視点に基づいてなされていると言うこと、それにもかかわらず、多くの場合、そのように認識されず、むしろ私たちの社会における「一般的な視点」として普遍化されているということなのです。

女性アスリートのメディア・イメージ 稲葉佳奈子 (※1)


南アフリカのC・セメンヤ選手 彼女は生まれつき男性ホルモンホルモンのテストステロン(アンドロゲン)の値が高く、それが骨や筋肉の発達に影響する可能性があるとして他選手から不公平との声が上がり、2009年、国際陸上競技連盟が性別検査を実施したり、2018年には同陸連がテストステロン値の高い女性選手の400m〜1マイル(約1600m)の種目への出場を制限するルールを作るなど、狙い撃ちとも言える不利益処分を受けてきた。

伝統的には、外性器の発達具合により女性か男性かを判別し、それで不明な場合には、染色体XYかXXに2分し、(実際にはそれ以外の染色体を持つ人も存在する)さらには性腺が精巣か卵巣かによって男性と女性に2分すると言う手段がとられてきたが、そのような2分法がなおそのままでいいのか。

先天的に「実質的不平等」が存在する当事者間に「機会の平等」を保障するため不利な側の当事者に特に与えられる処置が、特定の競争原理が支配する場ではかえって不公平であるとの避難や疑義をもたらす状況にどう対応すべきか。

「男女に分かれて競技をするという五倫の前提を変えるべきだと主張する論文」を2018年に発表したニュージーランドのある研究者は「ハンディキャップや記録に係数をかけるルールなど、男女が一緒に(競技)できるように工夫するべき」とし、「100年以上前には、女性がスポーツをすることに違和感を感じる時代があった。男女区別せずに協議することへの抵抗感も、慣れの問題だ」と述べたそうである

早川吉尚 「スポーツと法 オリンピック・パラリンピックから考える。」 (2021)有斐閣
忠鉢信一= 遠田寛生「女性になって五輪出場はあり?『不公平』と批判も」毎日新聞2020年4月19日朝刊

環境問題


景気のいい頃はスポーツ施設に地元の人々が雇われる、民宿に民泊客が来るなど、幾分か近辺の地域社会にもお金が落ちました。しかし、利潤の多くをホテルやスポーツ施設を経営するリゾート会社がいると言う仕組みになっており、本当の旨味は地元には還元されませんでした。そして、バブル経済が去った後にこれらの会社が手を引いてしまうと、残ったのは施設の維持費と荒廃した自然でした。一度手放した自然を、以前と同じ状態に回復させるのは至難の業です。こうして多くの地域が豊かな自然環境と生業を共に手放してしまったのです。 (中略) スポーツを楽しみ癒されるのは主に都市の消費者で、スポーツする場を提供して彼らをもてなすのは地方と言いう構図は現在もあまり変わっていません。

スポーツと自然環境 戦後の経済発展と地域格差 江南健志 (※1)

文化装置としてのスポーツイベント


サッカー・ワールドカップ

「ワールドカップ・サッカーはオリンピックの理念のアンチテーゼとして掲げて始まった。オリンピックのアマチュアリズムに対し、「プロ・アマ共存」が理念だった。

ワールドカップ・サッカー 牛木素吉郎 (※1)


サッカー・ワールドカップ

「サッカーの代表チームは、肉体を持った国家だ」と言われるのは、他国チームと比較しながら、自国チームのプレースタイル(例えば組織力)をもとに自国民をステレオタイプ化し、表象するからです。また、人々が国旗を振ったり、顔にペインティングしたり、国民であることを誇張するファッションに身を包むといった行為は、ナショナルアイデンティティーの表現活動といいます。

メディア・イベントとしてのスポーツ 橋本 純一 (※1)


オリンピック

すなわち、「オリンピック憲章」に編纂されているオリンピック開催に関する全てのルールは、あくまで「IOCにより採択された」結果として有効になっている規則群に過ぎないのである。このことは、すなわち、その遂行の歴史的経緯については別段、現在における「オリンピック」とは、法的には、スイス法人であるIOCが主催するスポーツイベントにすぎないことを意味する。

早川吉尚 「スポーツと法 オリンピック・パラリンピックから考える。」 (2021)有斐閣


オリンピック

(スノーボード選手 テリエ・ハーコンセンインタビューより) ダニー・キャスに聞いてみたらいい。彼は一回の滑走に固執しなければならない形式を消え毛嫌いしている。もし、オリンピックの形式がジャム・セッション(※2)やクリエイティブ・セッションであれば、彼はその表現力を最大限に打ち出すことができる。なぜなら彼はクリエイティブなフリースタイル・ライダーだからだ。彼は金メダルが欲しくてホームピットやトランポリンの上でまるで体操か何かのような練習をして時間を浪費するようなまねはしない。的経緯については別段、現在における「オリンピック」とは、法的には、スイス法人であるIOCが主催するスポーツイベントにすぎないことを意味する。

なぜ僕がいまだにオリンピックを憎んでいるのかテリエ・ハーコンセン/山本淳久訳 小笠原 博毅 山本淳久 編 「反東京オリンピック宣言 」 (2016)倉敷印刷株式会社 ※2 制限時間内であれば何本でもトライできる競技形式。


オリンピック

どんなにオリンピックという大イベントのために大きく経済を動かす必要があるにしても、しっかり文化の哲学を慮れる心のゆとりを示すべきではないかと思うのです。例えば古い建物に過去への敬意を払ってきちんときれいにリフォームして使うとか、古代オリンピックと同じように大自然の中の草原でやってみると言うのも良いのではないでしょうか。そういうことが提案できる才覚や勇気のある国が、そのうち現れてくれないかなと思っています。

ヤマザキマリ 「オリンピック・キュクロス」 2巻(2018) 集英社 [漫画とオリンピックと私] ヤマザキマリ

ニュース


差別

1936年ベルリン・オリンピック大会では、当時ドイツ女子走り高飛びで最高記録を持ちメダル獲得間違いなしと言われていたマーガレット・ベルクマン選手が、ユダヤ人であるがゆえにナチス政権から出場を取り消されました。彼女はベルリン大会直後にホロコースト(ユダヤ人虐殺)を逃れてニューヨークに渡り、アメリカに定住しましたが、アトランタオリンピック(1996年)を契機にアメリカオリンピック委員会とIOCに手紙を送り、2009年念願叶って「名誉回復」となり、彼女の記録がドイツ陸上競技連盟によって正式に認められました。

日本では1920年(大正9)年の第8回陸上競技大会マラソン競走で1位から5位までに入った人力車夫、郵便配達夫などが、「脚力を業とする故を以て除外」され、6位以下の選手が繰り上げ入賞すると言う「車会党事件」が起きています。

スポーツにおける差別・社会的排除 森川貞夫 (※1)


アリゾナ州立大学 大学バスケ八百長事件

https://www.vice.com/ja/article/7x7vg9/legacy-of-the-1961-st-joes-hawks


日大アメフト部悪質タックル問題

経済電論 https://seikeidenron.jp/


採点

2004年のアテネ・オリンピック体操競技男子種目別決勝の鉄棒では、2000年のシドニーオリンピックの優勝者、アレクセイネモフ選手(ロシア)の採点をめぐって観客席から抗議の大ブーイングが起こり、審判団がネモフ選手の得点を修正した出来事がありました。

「ブーイングで競技中断 採点に抗議、五輪体操」共同通信、2004年8月24日付


eスポーツ

IOCが主催のeスポーツの競技大会開催。  2024年のパリオリピックでeスポーツを公式種目とする見通しが話し合われている。

https://news.yahoo.co.jp/byline/hirabayashihisakazu/20210425-00234549


eスポーツ

eスポーツ専門の高校「eスポーツ高等学院」が2022年開設される。 高卒の資格を取ることができ、国語・数学・理科・社会も通信教育制度を通して一部学びながら半分はゲームを学ぶ学校が開設された。

https://esports-hs.com/


オリンピック

五輪表彰式で初の抗議行動 東京五輪の陸上女子砲丸投げで銀メダルを獲得したレーベン・ソーンダーズ(米国)が、1日の表彰式で「抑圧された人々」への連帯を示す抗議行動を行っていたことが2日、分かった。AP通信によると、頭上で両手を交差させて「X」の形になるポーズをつくった。表彰式では今大会初の抗議行動とみられる。五輪憲章は表彰式での表現が処分対象になると明記している。

https://news.yahoo.co.jp/articles/57c867261651743df6823a50af20f55b23163d30


オリンピック

北京五輪 外交ボイコット 新疆ウイグル自治区の非人道的な人権問題

https://www.jiji.com/jc/article?k=2022010400692&g=pol

作家・展覧会


あそびのじかん 東京都現代美術館 キュレータ:高橋洋介 参加作家: 開発好明 野村和弘 タノタイガ ハンバーグ隊 TOLTA うしお

2019年07月20日(土)〜10月20日(日)


OLYMPICNIC 寺田衣里、森山晴香


de-sport : 芸術によるスポーツの解体と再構築 金沢21世紀美術館 キュレータ:高橋洋介 参加作家: 柳井信乃   クリスチャン・ヤフコンスキー アローラ&カルサディーラ 西京人 エルヴィン・ヴルム リアム・ギリック

2020年6月27日(土) 〜2020年9月27日(日)


ルール?展 21_21 DESIGN SIGHT 展覧会ディレクターチーム:水野 祐、菅 俊一、田中みゆき 参加作家:石川将也+nomena+中路景暁、ダニエル・ヴェッツェル(リミニ・プロトコル)+田中みゆき+小林恵吾(NoRA)×植村 遥+萩原俊矢×N sketch Inc.、遠藤麻衣、葛宇路(グゥ・ユルー)、高野ユリカ+山川陸、一般社団法人コード・フォー・ジャパン、コンタクト・ゴンゾ、佐々木 隼(オインクゲームズ)、NPO法人スウィング、田中功起、丹羽良徳、野村律子、早稲田大学吉村靖孝研究室、Whatever Inc.

2021年7月2日(金)- 11月28日(日)

各競技の特性


アーチェリー

身体活動料が少ない故に、より内的な感覚に注意が向く。「覚醒水準」「動機付け水準」

矢を放った瞬間に強い快感を覚える。

伊藤亜紗 渡邉淳司  林阿希子  著 「見えないスポーツ図鑑」 (2020)晶文社


体重階級制競技のウエイトコントロール

体重階級制競技で、計測後に試合に向けて食事による体重増量をする際、東洋人より西洋人の方が増量率が高い。

にけつ!  2021年10月放送回 ケンコバの発言より


新体操

2018年 ルール変更 制限時間内にいくつも難易度の高い技を入れていいルールに変更された。 その代わり、技の失敗による減点は大きくなった。成功と失敗がわかりやすい技術面を評価することでよりスポーツ的になった。

ロシアの選手コメント「サーカスみたい」「難易度が高くても美しくない」 美しさを表現するトレーニングは行っているが、演技のなかで表現として発揮する場がない現状にある。

採点競技における“芸術性”とは? 技と美を競うスポーツの未来
https://www.youtube.com/watch?v=3CF0Ck_-9Js&t=1s


卓球

全力疾走しながらポーカーをしている競技

見えないスポーツ図鑑

スポーツ漫画・アニメ


作品の中でスポーツは、社会を「強者/弱者」「金持ち/貧乏」と言う仕組みから捉えさせ、その上で「勝利」をキーワードに、社会における生き方に基準を与える、1つのイデオロギーや倫理として作用しています。漫画に描かれたのは、この意味で人生の指針、人生のメタファー(比喩)としてのスポーツであったと言って良いと思います。

スポーツマンガ 松田恵示 (※1)


アニメーション

カバディ........ カバディ_ 体が弱く、身体能力がないのにカバディがめちゃくちゃ強い先輩がでてくる。
あさひなぐ........ 薙刀_ もともと運動能力が全然ない主人公がどんどん強くなっていく。
弱虫ペダル........ 自転車のチーム競技_ 主人公はもともとママチャリでアキバに通ってたから筋力が自然についていた設定。
ツルネ........ 弓道_ 早気(はやけ:早く矢を打ってしまう症状)に悩まされる。他人に理解されない辛さ。
SLAM DUNK ........ バスケットボール_ ヤンキーが不純な動機でバスケを始める。ポテンシャルがすごい。
ボールルームへようこそ........ 社交ダンス_ 学生だけど部活じゃない。
ベイビーステップ........ テニス_ 観察・分析力で強くなっていく。
あひるの空........ バスケットボール_ スポーツを取り巻くリアルな人間模様を描いている。
ハイキュー!! ........ バレーボール_ 練習が生き生き表現されている。
ユーリ!!! on ICE ........ フィギュアスケート_ 主人公の人間性が親しみのある性格をしている。
柔道部物語 ........ 柔道
オリンピックキュクロス........ 歴史と現代の文化を比較しながら、オリンピックやスポーツに対する問題提起と提案をしている。

※閲読または視聴したことのある作品のみ


スポーツ的な側面を持つと思う作品

修行・練習・修練・研究・ゾーン・プレッシャー・超集中 など

ドラゴンボール
なると
ブリーチ
僕のヒーローアカデミア
鬼滅の刃
鋼の錬金術師
ブラッククローバー
ブルーピリオド

※閲読または視聴したことのある作品のみ


3月のライオン

初めて将棋のテレビ中継を観たときに、人間の極限限状態を目撃してしまったんですよ。対局していた佐藤康光先生(九段。現将棋連盟会長)が、多分ものすごい勢いで脳を使っていて、無意識のうちに脳を激しく揺らしていたんです。それまで将棋の事はあまり知り知らなかったのに、「これを書かなければ!」と、もう吸い込まれるような感覚になってしまいました。 羽海野チカ( 3月のライオンの作者)

オリンピック・キュクロス 5巻(2018)
集英社 羽海野チカ×ヤマザキマリ オリンピック放談


ゾーン(Zone) 、無心 、フロー(flow) 、 頂点経験 、溶解体験

自分の自己のウチとソトを区別する境界が消失して、ウチとソトが溶解する感覚になります。同時に、自分が自由自在にどんな困難にも対応できる状態になり、いつの間にか岩を登りきっています。 自分を意識する自分がなくなり、運動する身体と自分と言う精神が一体となってしまうのです。この時人は大きな歓びに包まれます。

スポーツにおける精神と身体 亀山佳明 (※1)
「フロー」(flow) チクセントミハイ
「頂点経験」 A.H.マズロー
「溶解体験」 作田啓一

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  • (※1)井上 俊 ・菊 幸一 編著
    「 よくわかるスポーツ文化論」
    (2012)ミネルヴァ書房